花見と東京タワー

 

東京の桜の花はすっかり散ってしまい、今は葉桜となっている。今年も腰を据えた花見には行かなかった。私は花見が苦手である。連れ立って行動するのが好きではないというのもあるが、わざわざ見にいくよりも、思いがけないところで出合ったり、電車やタクシーの車窓から一瞬だけ見ることが出来る桜の方が印象に残るという理由が大きい。しかし、花見の様子が描かれている文章には好きなものが幾つかある。
「四季を通じて人の心持ちが浮き浮きするのが、春。春は花……なんてえことを申しまして、まことに陽気でございます」と始まるのは、落語「長屋の花見」だ。
「おう、きのう飛鳥山へ行ったが、たいへんな人だぜ、仮装やなんか出ておもしろかった」
「そうかい、花はどうだった?」
「花? さあ……どうだったかなあ?」
してみると、花見というのは名ばかりで、たいがいは人を見に行くか、また騒ぎに行くらしいようで……。(麻生芳伸編、ちくま文庫刊『落語百選 春』所収「長屋の花見」)

貧乏長屋に暮らす住人は揃いも揃って家賃を滞納しているものだから、大家もまったく潤わないが、そんな長屋にも春はやってくる。大家はみんなを集めて花見に誘った。花見には酒がつきもの。そしてお重にはかまぼこと卵焼き。しかし、そんなものを用意する金は、当然ない。酒は番茶を水で薄めたもの、かまぼこは大根のこうこ(漬け物)、卵焼きは沢庵である。これらを担いで向島に向かった一行は、番茶を渋々呑みながら宴会を始める。小ネタを挟みながらテンポよく噺は進み、最後の下げは春らしいよい兆しで終わるこの「長屋の花見」は、見栄っ張りで、でも情に厚い江戸っ子の姿が実に生き生きと描かれているのがいい。

もうひとつ、花見の話で好きなのは、武田百合子の『遊覧日記』のなかの「隅田川」という作品だ。娘・H(写真家の武田花)が急に友達と隅田川に花見に行くことになった話を聞いた武田百合子は「それなら、あたしだって、その情緒に浸ってみたい」と、その二日後にHを連れて浅草へ出向いた。武田百合子特有の、ある種の冷淡さを持った人物描写で花見客を描いているところなど、光景がありありと浮かんで面白いのだが、桜の描写がまた白眉である。
「眼に見えて対岸から風が吹きわたってくる。土手の桜の花びらが先ず震え、枝の先が左右に揺れ上下に揺れ、一拍遅れてわっと花吹雪が起る。そのあとは風がなくても滑るように花が散って止まない。この花は、そういう具合になるように花びらがくっついているのだ。」(ちくま文庫刊『遊覧日記』所収「隅田川」)
何とも凄みのある文ではないか。怖さすら感じさせられる。この文を読むたび、もう花見など行かなくてもいいという気になってしまう。

長屋の花見」には全く桜の描写はなく、「隅田川」の方も、木に咲く花についてはごくあっさりと触れられているだけである。冒頭に引いた「長屋の花見」の枕が指し示すように、花見はやはり花を見るに非ず、といったところだろうか。
かつて私は、JR原宿駅を利用して竹下通りを歩いて事務所まで通っていた。竹下通りの中腹まで来ると、東郷神社の桜の花びらがさーっとそこまで舞ってくることがよくあった。桜の木そのものは見えないが、花びらだけが嘘のように漂うその光景が好きで、そういうタイミングに出くわすと気分がよかった。道路に落ちた花びらは、誰の気にも留められず、踏まれて汚れ、道の隅に溜まってゆく。その様子を見るにつけ、花見というのは残酷だな、と少しだけ思う。

ところで、思いがけないところで出合う桜の方が印象に残ると冒頭に記したが、先日送本いただいた『東京ウォーカー』のゴールデンウィーク号にこんなことが書かれていた。曰く「意識していない時に突然見える東京タワーというのもいい」。先頃お亡くなりになったイラストレーター・安西水丸さんと小山薫堂さんの連載「東京応援談」の、追悼特別編に掲載された安西さん語録である。なるほど、東京タワーも確かにそういうところがある。安西さんの絵に初めて触れたのは小学生だか中学生のときだった。その後、私は原宿で働くようになり、カレー店「GHEE」で、ひとりビーフカレー(大変辛い)を黙々と口に運ぶ安西さんを、何度となくお見かけした。落ち着いた軽やかさのある方だな、とそのとき思った。この場を借りて、ご冥福をお祈り申し上げたい。

 

*メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」#221に寄稿したエッセイに加筆