なぜ靴を脱ぐのか

夏が過ぎて秋の声が聞こえるようになった。が、今日は再び暑い一日だった。秋冬ものはもう一息といったところだろうか。

 

さて、カフェで、レストランで、あるいは電車のなかで、靴を脱いでいるひとを少なからぬ数、見かける。新幹線なんかも多い。これは性別、年齢はあまり関係ないようである。座敷でもないのになぜ脱ぐのか? 足に合わない靴を履いているから。長時間歩いたから。ずっと立ちっぱなしだったから。理由はひとそれぞれだろうが、私はこの靴を外で脱ぐというのが気になって仕方ない。

 

コンサマトリー」という言葉がある。元々はアメリカの社会学タルコット・パーソンズが掲げた造語で、日本語にすると自己目的的とか自己完結的、自己充足的といったところになるだろうか。将来的な成果や目標に向けてなにかをする、つまり行動が手段になるのではなく、行動すること(あるいはしないこと)そのものが目的となり、今この瞬間の楽しさや自由を享受する、というようなことを指す言葉として、最近の若者論にもよく登場する(この点において、現代に生きる20代は生活満足度が高いということが世論調査でも明らかにされている)。

どうなるかも分からない未来に賭けるよりは、今この瞬間を楽しく満ち足りたものにしたい。そうしたことは、社会という大きな営みとはまた別の、非常にパーソナルな関係性に帰着するだろう。近年、「ライフスタイル」「自分らしさ」(これは嫌いな言葉の一つだ)という言葉がもてはやされるのも、そうした時代の潮流と合致しているところがあるかもしれない。「コンサマトリー」の是否をここで明らかにしようとは思わないが、自分(たち)の外側の世界=社会との関係性が希薄になってゆくことは気にかかるところであるし、それは若者に限ったことではないだろう。

 

社会との関係性ということで言えば、内(家)と外の境界線も曖昧になっている気がする。カジュアル化、フラット化が進む世の中にあって、大体のところはそこそこな格好で行くことが出来るようになった。気張らずとも色々なことが楽しめるようになったのは決して悪いことではない。カジュアルな出で立ちで訪れると場違いになる「場」が減ったのだ。

外出するということは、ある種の不便さを伴うものだった。その不便さこそが、内と外を我々に意識させるひとつの要因であることは間違いのないところだろうが、現在は非常に便利な世の中になった。便利になることは大いに結構。ただ、それを無感覚に受け止めてしまうことで、内と外のボーダーラインに揺らぎが生じる。今やコンビニの前で暖かいおでんだって食べられてしまうのである。

 

こう考えてゆくと、個と社会との関係性は与えられるものでなく自ら築いてゆくものだということを改めて感じる。実に当たり前の話なのだが、自らが社会を意識しないとき、そこに社会はない。

 

ある時点まで、ファッション、アート、音楽などは、社会との関わり合い方の意思表示であった。アートは今もそうした側面を比較的強く持っていると思うが、ファッションについてはどうだろう。随分と希薄になっていると言って差し支えなさそうである。もちろんそうした意志をもって服作りをしているデザイナーは現在も存在する。しかし着る側の意識としては、もはやそのようなものではないだろう。それを残念がるのは随分とノスタルジックな話だとは思うが、しかし、何となく服を着るよりも、何らかの意志―それは必ずしもメッセージ性を必要としない―をもって着た方が俄然素敵なように感じる。能動的な姿勢でもって着た服は、自分も気持ちがいいし、他者=社会にも影響を及ぼすものである。

 

外で靴を脱いでしまうひとのように、周囲を顧みない、つまり社会との関係性を無視してしまうひとでも、SNSには夢中だったりするから面白い。「ソーシャル」の認識の仕方の違いと言ってしまえばそれまでだが、実際の社会の視線というものをもう少し感じてもいいのに、とは思う。しかし何より問題なのは、そうした光景を当たり前のものとして受け止め、何も思わないひとが増えることである。少なくともファッションに携わるひとびとはこうしたことに対して敏感であってほしい。社会がなければ服など暑さ寒さをしのぐ有用性だけのものになってしまうだろうから。

 

 

*メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」#240に寄稿したエッセイに加筆

花見と東京タワー

 

東京の桜の花はすっかり散ってしまい、今は葉桜となっている。今年も腰を据えた花見には行かなかった。私は花見が苦手である。連れ立って行動するのが好きではないというのもあるが、わざわざ見にいくよりも、思いがけないところで出合ったり、電車やタクシーの車窓から一瞬だけ見ることが出来る桜の方が印象に残るという理由が大きい。しかし、花見の様子が描かれている文章には好きなものが幾つかある。
「四季を通じて人の心持ちが浮き浮きするのが、春。春は花……なんてえことを申しまして、まことに陽気でございます」と始まるのは、落語「長屋の花見」だ。
「おう、きのう飛鳥山へ行ったが、たいへんな人だぜ、仮装やなんか出ておもしろかった」
「そうかい、花はどうだった?」
「花? さあ……どうだったかなあ?」
してみると、花見というのは名ばかりで、たいがいは人を見に行くか、また騒ぎに行くらしいようで……。(麻生芳伸編、ちくま文庫刊『落語百選 春』所収「長屋の花見」)

貧乏長屋に暮らす住人は揃いも揃って家賃を滞納しているものだから、大家もまったく潤わないが、そんな長屋にも春はやってくる。大家はみんなを集めて花見に誘った。花見には酒がつきもの。そしてお重にはかまぼこと卵焼き。しかし、そんなものを用意する金は、当然ない。酒は番茶を水で薄めたもの、かまぼこは大根のこうこ(漬け物)、卵焼きは沢庵である。これらを担いで向島に向かった一行は、番茶を渋々呑みながら宴会を始める。小ネタを挟みながらテンポよく噺は進み、最後の下げは春らしいよい兆しで終わるこの「長屋の花見」は、見栄っ張りで、でも情に厚い江戸っ子の姿が実に生き生きと描かれているのがいい。

もうひとつ、花見の話で好きなのは、武田百合子の『遊覧日記』のなかの「隅田川」という作品だ。娘・H(写真家の武田花)が急に友達と隅田川に花見に行くことになった話を聞いた武田百合子は「それなら、あたしだって、その情緒に浸ってみたい」と、その二日後にHを連れて浅草へ出向いた。武田百合子特有の、ある種の冷淡さを持った人物描写で花見客を描いているところなど、光景がありありと浮かんで面白いのだが、桜の描写がまた白眉である。
「眼に見えて対岸から風が吹きわたってくる。土手の桜の花びらが先ず震え、枝の先が左右に揺れ上下に揺れ、一拍遅れてわっと花吹雪が起る。そのあとは風がなくても滑るように花が散って止まない。この花は、そういう具合になるように花びらがくっついているのだ。」(ちくま文庫刊『遊覧日記』所収「隅田川」)
何とも凄みのある文ではないか。怖さすら感じさせられる。この文を読むたび、もう花見など行かなくてもいいという気になってしまう。

長屋の花見」には全く桜の描写はなく、「隅田川」の方も、木に咲く花についてはごくあっさりと触れられているだけである。冒頭に引いた「長屋の花見」の枕が指し示すように、花見はやはり花を見るに非ず、といったところだろうか。
かつて私は、JR原宿駅を利用して竹下通りを歩いて事務所まで通っていた。竹下通りの中腹まで来ると、東郷神社の桜の花びらがさーっとそこまで舞ってくることがよくあった。桜の木そのものは見えないが、花びらだけが嘘のように漂うその光景が好きで、そういうタイミングに出くわすと気分がよかった。道路に落ちた花びらは、誰の気にも留められず、踏まれて汚れ、道の隅に溜まってゆく。その様子を見るにつけ、花見というのは残酷だな、と少しだけ思う。

ところで、思いがけないところで出合う桜の方が印象に残ると冒頭に記したが、先日送本いただいた『東京ウォーカー』のゴールデンウィーク号にこんなことが書かれていた。曰く「意識していない時に突然見える東京タワーというのもいい」。先頃お亡くなりになったイラストレーター・安西水丸さんと小山薫堂さんの連載「東京応援談」の、追悼特別編に掲載された安西さん語録である。なるほど、東京タワーも確かにそういうところがある。安西さんの絵に初めて触れたのは小学生だか中学生のときだった。その後、私は原宿で働くようになり、カレー店「GHEE」で、ひとりビーフカレー(大変辛い)を黙々と口に運ぶ安西さんを、何度となくお見かけした。落ち着いた軽やかさのある方だな、とそのとき思った。この場を借りて、ご冥福をお祈り申し上げたい。

 

*メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」#221に寄稿したエッセイに加筆

『アンディ・ウォーホル展』雑感

現在開催中の『アンディ・ウォーホル展:永遠の15分』に、展示開始早々行ってきた。国内過去最大の回顧展であり、シンガポール、香港、上海、北京と廻ってきたアジア巡回展の最後を飾る本展は、約400点にも上る作品が一堂に会する見応えのあるものだ。

 

会場は、自身のポートレイトから始まり、50年代の商業デザイナー/イラストレーター時代、アーティストとしての名声を獲得した60年代、より多様な作風となった70〜80年代、とほぼ時代を追ったかたちで構成されており、60年代に数々の作品を”製造”したニューヨークのスタジオ「シルバー・ファクトリー」の一部を原寸大で再現した一角もあって楽しい。私などの世代つまり80年代に10代を過ごした人々にとってのウォーホル体験は、(当時の)セレブリティの注文肖像画、マリリン・モンローエルヴィス・プレスリーといった「スターの肖像」シリーズ、キャンベル・スープ缶など様々な年代の作品の「複製品」(それはポスターだったり、レコードジャケットだったりした)であった。また、ビデオテープのCMの、ウォーホル自身が片言の日本語で喋る映像が、TVを通じて昭和のお茶の間に届けられたことが印象に残っているという方も多いのではないだろうか。

そうした、一般的によく知られる作品の実物(そもそも実物という概念も疑わしくなるのだが)を観ることができるのだが、個人的に面白かったのは、商業デザイナー/イラストレーター時代の作品と、映像作品だ。前者からは、ブロテッド・ライン(鉛筆の下絵をインクでなぞり、別の紙に転写することで「掠れ」や「滲み」を伴った線を生み出す技法)による女性ものの靴、3つの異なるスタイリングを描いたファッション像などから1950年代当時のアメリカのファッションの傾向を窺い知ることができる。「アメリカ黄金期」とはよく言ったもので、この頃のスタイル、とりわけ女性のそれにおけるエレガントなムードは、後の時代にもたびたび参照されているのはご存知の通りである。
後者の映像作品では『エンパイア』(1964年)や『スクリーン・テスト』(1963〜66年)などの、静的な映像に神経が研ぎ澄まされる。あまり動かないものを観続けることで、鑑賞者自身の身体的、時間的揺らぎが大きなものに感じられるのが面白い。

ポップアートという範疇に括られることの多いウォーホルの作品は、当然のことながらその時代のアメリカとそれをとりまく諸国の社会、経済、政治情勢を考えながら鑑賞する方が、より楽しめる。アイコニックな作品が生まれた時代に何が起こっていたか? 時代はどのように彼に影響を与えていたか? 展覧会に訪れたなら、ぜひ図録を求め、鑑賞の記憶を反芻しながら、彼の時代に思いを巡らせてみてはいかがだろうか。表層をなぞって分かった気になるには、あまりに勿体ない展示である。


ところで、上記のような視線を持って観てみたいのは、先日から水戸芸術館現代美術ギャラリーで始まった展覧会『拡張するファッション』である。コレクターではなく大衆に向けた表現であるところのファッションのなかにあって、90年代に登場した「日常への視点」「自発性(D.I.Y.)」「マルチアウトプット」といった傾向を内包する何組かのデザイナーたちの独特な創造性を、社会と接続しながら改めて考えてみたい。

 

※メディア向けメールニュース「BEAMS NEWS」#215 に寄稿したエッセイに加筆

技術の進歩が生む多様性—『本の逆襲』を読んで

「これからは〇〇」「もう〇〇は終ってる」

といった会話を耳にすることが少なくない。

「ラジオスターの悲劇」よろしく、以前からあるものを

ないことにしてしまうような向きも多いように思う。

 

ブックセレクターであり、下北沢の新刊書店「B & B」を経営する

内沼晋太郎くん(numabooks)の新著『本の逆襲』(朝日出版社)が

12月中旬に発売された。

本というと「(主に)紙に印刷され、綴じられたもの」を

思い浮かべる方が圧倒的だろうが、『本の逆襲』で言う「本」は

それとはやや趣を異にする、より拡張された概念としての本である。

 

「本が現在のような冊子状になったのは、

羊皮紙という素材が生まれて以降のことです。

印刷技術が生まれて複製可能になり、手書きの必要はなくなりました。

その後デジタル技術が生まれて、印刷の必要がなくなったと同時に、

冊子ではなくまるで石板や樹の皮のような、

一枚のタブレット状にまた戻ったのが現代である、

とも言えるでしょう」(P.42)。 

 

筆者の見解に拠れば、電子書籍はもちろんのこと、

企業が作る商品カタログ、それを転用したウェブサイト、

Evernote上のテキスト、はたまた携帯のアドレス帳や

撮った写真をプレビューするデジタルカメラまでもが本である。

すなわち「本はもはや定義できないし、定義する必要がない。

本はすべてのコンテンツとコミュニケーションを飲み込んで、

領域を横断して拡張していく(P.45)」ということである。

 

かつては紙の本だけだったのが、時代が進んでより多様になる。

アドレス帳やデジカメはやや極端な例に感じられるところもなくはないが、

用途や好みに応じて「なにを選ぶか」を私たち自身が

決めることができるようになったのは間違いのない事実であり、

そうした側面だけ見ても、「本が売れない」と言われるなかにあって、

本という存在はむしろ広がりを見せていると言えるだろう。

こうして拡張された「本」を交えた(使ったではなく)

コミュニケーションを生み出す機会を、内沼くんは色々仕掛けている。

まだ一度しか実現していないが、内沼くんが選書した本を

来場者全員が各々のペースで読み、

その間に私が即興で選書のイメージから音や音楽をつける、

というイベント「honne(ホンネ)」も、

そうした試みのうちのひとつであった。

これはまたいつかやりたいと、ずっと思っている。

 

『本の逆襲』の最後に、この本のタイトルは、

電子書籍の登場により(紙の)本が危機に曝されるということを

ネガティブな言葉で煽ってベストセラーになった

幾つかの書籍へのアンチテーゼである、

ということが書かれている(あえて引用はしない)。

供給側(この本では出版業界)にいると、

そのなかでの価値観、物差しで物事を判断してしまいがちである。

新しい技術を伝聞推量形でもって説いて、

「だからあれはもう終わり」「次は〇〇だ」と言うことは簡単だが、

そうしたことの積み重ねがシーンや文化を衰退させていることを

忘れてはならないし、単純な二元論ではなく、

その中間のグラデーションの存在に気付くことこそが必要であろう。

 

現代における技術の進歩というのは、選択肢の多様化である。

『本の逆襲』は、そうしたことも私たちに教えてくれる。

「本」を違う言葉に置き換えながら読み進めるのもよいだろう。

選択肢が多様化しているのは、なにも本だけではないのだから。

 

ところで、今ならラジオスターは死なずに済むと思うのだが、どうだろう?

コミュニケーションとしてのファッション

先日、ファッション界の大先輩である田辺三千代さんの

還暦を祝う会にお邪魔してきた。

 

サプライズパーティーということで、必然的に参加者は、

ご本人がいらっしゃる前に会場に集合して待機ということになる。

久しぶりにお会いする方にご挨拶したり、

比較的よく顔を合わせるひととは最近の話をしたりした。

何しろ、主役が飛切りお洒落な方なので、集まる面々も洒落た方ばかりだ。

「お洒落」と書いたが、巷のトレンドをそのまま、

というようなひとはおらず、皆、それぞれ独自のスタイルを持っている。

服が板についている、とでも言おうか。

だから、こういう会はとても楽しい。

 

ファッションは、自己表現であるとは昔からよく言われるところだが、

コミュニケーションメディアとしての側面も忘れてはならないだろう。

双方向のコミュニケーションには、他者を思いやる気持ちが不可欠である。

それなくしては、単なる自己主張の押し売りにもなりかねない。

この日集まったひとたちは、そういう意味において、

成熟した考えをお持ちなのだろうということが

着こなしから透けて見えてきて、それゆえ居心地もいいものだった。

 

その数日後、自分が企画した詩人・菅原敏さんの

ディナーショーに立ち会った。

馬喰横山の「フクモリ」で開催したこのディナーショーは、

普段の菅原さんの「朗読ライブ」(詩の朗読にピアノの演奏が添えられる)

に、ディナーショーらしく、

各テーブルへの「詩の宅配便」などを加えたもので、

有り難いことに大勢のお客様に足を運んでいただいた。

黒いジャケットに千鳥格子のパンツ、インナーには白のドレスシャツ。

ポケットチーフも忘れない。

その夜の菅原さんのファッションは、

お客様にディナーショー的な雰囲気を視覚からも感じてもらうのに

非常に効果的であったし、お店のムードとも絶妙なマッチングであった

(ピアノを演奏してくださった竹下勝英さんもスーツで臨んだ)。

これも、コミュニケーションメディアとしてのファッションの

好例といえるだろう。

 

年齢を重ねても若々しくありたい、と思うこと自体は、

一概に悪いこととは言い難い。

が、成熟しないことが若々しさであると

はき違えているひとが散見されるのもまた事実である。

「若々しさ」と「幼稚さ」とは別物だ。

着こなしに思いやりを与えられるのは成熟している

(あるいはそうなりたいと思う)ひとだけである。

 

少なくとも自分は、これまで述べてきた点に気を配ることが楽しい。

誰に会うからこの服、どこに行くからこの服、というように。

まだまだ未熟者であるのには違いないのだが。